みなさん、こんにちは!私はやよいです。突然ですが、みなさんは「由比正雪」という名前を聞いたことがありますか? 江戸時代初期に起きた慶安の変(1651年)の首謀者として、日本史の教科書にも登場する人物ですよね。徳川幕府を転覆しようとした大胆な計画……それだけでも十分ドラマチックなのですが、今日お話ししたいのは、そんな正雪のそばにいたひとりの女性の物語なのです。
名前は「おせん」。
歴史の表舞台には出てこない、ほとんど記録にも残らない女性です。でも、彼女の存在は「時代に翻弄された女性」というテーマを語るうえで、絶対に外せない一人だと私は思っています。「好きな人が起こした事件に巻き込まれて、自分まで罰せられてしまう」なんて、どれほど理不尽なことでしょう。でも、江戸時代にはそれが「当たり前」だったのです。
今日は、おじいちゃんと一緒におせんの悲しい物語を掘り下げていきますよ!
そもそも由比正雪って何をした人?慶安の変をおさらい
牢人(ろうにん)があふれていた江戸初期の社会
まず、おせんの物語を理解するために、由比正雪とはどんな人物だったのかを整理しておきましょう。由比正雪が生きた時代は、江戸幕府ができてまだ50年も経っていない頃のことです。
戦国時代が終わり、武士たちは主君を失ってあちこちをさまよう「牢人(浪人とも書きます)」があふれていました。江戸幕府の調べでは、当時の牢人の数はなんと40万人以上とも言われています。
仕事がなく、食うにも困る武士たちが街にあふれていた。これは幕府にとっても、社会にとっても大きな不安定要素でした。そんな時代の空気の中で、正雪は江戸の軍学者として名を上げていきました。
由比正雪の計画と「慶安の変」の全貌
由比正雪は静岡(駿府)出身で、本名を由比民部之助正雪と言います。
江戸の「楠不伝流軍学」を学び、やがて自分の道場を開いてたくさんの門弟を集めました。
その一方で、正雪は幕府への不満を抱える牢人たちをまとめ、幕府を倒して新しい世をつくるという壮大な計画を練り始めます。
計画の内容は大胆そのもの。江戸・京都・大坂の三都市で同時に火を放ち、その混乱に乗じて幕府の要人を暗殺するというものでした。
ところが、計画は内部の密告によって事前に幕府に発覚してしまいます。
慌てて駿府へ逃げた正雪でしたが、包囲されて逃げ場を失い、慶安4年(1651年)に自害して果てました。享年36歳前後とされています。
この事件が「慶安の変」または「由比正雪の乱」と呼ばれるものです。
歴史書に残る正雪と、記録に残らなかったおせん
慶安の変の顛末は、江戸時代の史書『徳川実紀』をはじめ、さまざまな文献に記録されています。
でも、不思議なことに気づきませんか?
事件に関わった男性たちの名前はしっかり残っているのに、女性たちの記録はほとんど残っていないのです。
歴史というのは往々にして、権力を持つ人・表舞台に立つ人の物語だけが書き残されます。
その陰に生きた女性たちの声は、時代の波にのみ込まれてしまうことが多いのです。
おせんもまた、そのひとりでした。

おじいちゃん、牢人が40万人ってすごい数なの。それってどれくらいの規模なの?

当時の江戸の人口がだいたい50万人前後と言われておるから、ほぼ同じ数の武士が職を失っていたことになるのぉ。今でいえば、都市ひとつ分の人間が職を失っておるようなものじゃ。そりゃ社会も不安定になるわけじゃよ。
さあ、ここからがいよいよ本題です!おせんとはどんな女性だったのか、一緒に見ていきましょう。
おせんとはどんな女性だったのか?その素顔に迫る
史料に残るわずかな痕跡
正直に申し上げますと、おせんについての確かな史料はとても少ないのです。
彼女の存在が記録に残っているのは、主に事件後の幕府の調書や、江戸時代中期以降に書かれた読み物・随筆の類いです。
つまり、おせんの像のかなりの部分は「伝承レベルの情報」で構成されています。
でもだからこそ、後世の人々がおせんに何かを重ねていた、ということでもあるのです。
『当代記』や江戸後期に広まった読本・草子の類いによれば、おせんは正雪の愛妾(めかけ)、あるいは深く関わりのある女性として登場します。
身分的には町人、または下層の女性だったと考えられています。
「連座制」という残酷な仕組み
おせんを語るうえで絶対に知っておきたいのが、江戸時代の「連座制(れんざせい)」です。
連座制とは、罪を犯した人物の家族や関係者も一緒に罰するという制度のことです。
江戸幕府の法律体系である「御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう)」にもその考え方は組み込まれており、謀反(むほん)を企てた者の妻や子どもは死罪・流罪(島流し)・追放などの処罰を受けることが普通でした。
謀反という最も重い罪においては、妻子はもちろん、本人の愛人や深い関係にある人物まで処罰の対象になることがあったのです。
おせんが「恋人」あるいは「愛妾」という立場であったとすれば、たとえ計画を何も知らなかったとしても、幕府から疑いの目を向けられるのは避けられませんでした。
おせんに与えられた「罰」とはどんなものだったか
史料の記述はきわめて断片的ですが、伝承や後世の読本類をもとにすると、おせんは事件後に幕府によって捕らえられ、処罰を受けたとされています。
その処罰が死罪だったのか、流罪だったのか、あるいは追放だったのかについては、はっきりとした記録が残っていません。
江戸時代の庶民の女性は、そもそも名前すら記録に残されないことが多かったのです。
それが、おせんという女性の悲劇をさらに深いものにしています。
歴史の闇に飲み込まれた存在……。でも、だからこそ後世の人々は彼女の物語を語り継ぎ、芝居や読本に書き残していったのかもしれません。

連座制って、何も悪いことしてないのに罰せられるってこと?それって怖いなの。おせんが何も知らなかったとしたら、本当にかわいそうなの。

そうじゃ。連座制は現代の目で見れば明らかに理不尽じゃが、当時の幕府にとっては「謀反の芽を根絶やしにする」ための有効な手段だったのじゃよ。情報を持っているかもしれない人間を全員取り込んでしまう、という考え方じゃな。おせんのような無名の女性の悲劇は、この制度の「犠牲者」そのものじゃ。
では、おせんの物語は後の世にどんな形で伝わっていったのでしょうか?次の章で探っていきましょう!
伝承と物語の中のおせん〜庶民の心に刻まれた女性像
歌舞伎・読本に登場するおせん像
江戸時代の庶民文化において、由比正雪の物語は非常に人気の高い題材でした。
歌舞伎では「慶安太平記(けいあんたいへいき)」という演目が江戸中期から人気を集め、正雪の反乱と悲劇的な最期が劇的に描かれました。
また江戸後期になると、読本(よみほん)や草双紙といった大衆向けの本のなかにも、正雪とともにおせんが登場するようになっていきます。
そのような物語の中でおせんは、正雪を深く愛しながらも、時代の波に飲み込まれてしまった悲劇のヒロインとして描かれることが多いのです。
歴史上の実在の人物を下敷きにしながら、庶民が「もしこんな女性がいたら」と想像を膨らませた物語……それがおせんという存在の本質かもしれません。
「慶安太平記」と大衆文化の中の正雪・おせん
『慶安太平記』は、正雪の乱を題材にした浄瑠璃・歌舞伎の作品群の総称でもあります。特に人形浄瑠璃の形で演じられた作品は、江戸の庶民に正雪の物語を広く知らしめる役割を果たしました。
こうした大衆文化の中で、おせんは「忠義な女」「貞節な女」として美化されていくことが多かったのです。これはある意味、江戸時代の庶民が「理想の女性像」をおせんに重ねて投影していたともいえます。
現実のおせんがどんな人物だったかはわかりません。でも、後世の人々が彼女に何かを感じ続けていたこと——それ自体が、ひとつの歴史的事実なのです。
近現代の創作作品に見るおせんの姿
由比正雪を題材にした物語は、近代・現代にも数多くつくられています。例えば、直木賞作家・池波正太郎は江戸時代の人物を活き活きと描くことで有名ですが、由比正雪の時代の空気感を描いた作品のなかで、名もなき女性たちの姿もリアルに描写しています。
また、山田風太郎の作品群には、江戸初期の政治的な暗部に生きる人物たちが登場し、その中で女性が翻弄される様子が非常に印象的に描かれています。
こうした現代の作家たちが由比正雪の物語を繰り返し取り上げるのは、「権力に抵抗した人間の物語」が時代を超えて心に響くからでしょう。そしてその物語の陰には、必ずおせんのような「名もなき女性」の存在があったのです。

おじいちゃん、歌舞伎や読本って今でいうドラマや小説みたいなものなの?庶民がおせんのことを忘れたくなかったってことなの?

まさしくその通りじゃよ、やよい。江戸の庶民にとって歌舞伎や読本は最高の娯楽じゃった。幕府への不満をストレートに言葉にできない時代に、芸術や物語の形に乗せて「それでも誰かが戦おうとした」という話を共有することは、庶民の心の支えだったのかもしれんのぉ。おせんへの共感は、そのまま「理不尽に泣かされてきた庶民の自分たち自身」への共感でもあったんじゃろうな。
伝承の中のおせん像、なんだか胸に迫るものがありますね。次は、江戸時代の女性がどれほど過酷な立場に置かれていたのかを、もう少し掘り下げてみましょう!
江戸時代の女性の地位〜おせんが生きた時代の「女性の運命」
「三従(さんじゅう)の教え」が縛った女性の一生
おせんの悲劇を理解するためには、江戸時代の女性がどのような立場に置かれていたかを知る必要があります。
江戸時代の女性道徳を強く縛っていたのが、儒教(じゅきょう)の教えに基づく「三従の教え」です。三従とは「幼いときは父に従い、嫁いでからは夫に従い、老いては子(息子)に従う」という考え方で、女性が生涯にわたって男性の保護下に置かれることを当然とする価値観でした。
江戸時代には『女大学(おんなだいがく)』という教訓書が広く読まれました。これは儒学者・貝原益軒(かいばらえっけん)の著作とされてきたもので(※現在は諸説あります)、「夫を主人として仕えること」「実家への未練を持たぬこと」などが徹底的に説かれています。
つまり江戸時代の女性は、良くも悪くも夫(あるいは主人)の「付属物」として扱われることが法的にも社会的にも当然とされていたのです。
政治犯の「関係者」とされることの意味
こうした社会構造の中で「政治犯の恋人・愛妾」という立場に立たされたおせんの状況は、想像を絶するものがあります。
当時、謀反は最も重い罪のひとつでした。謀反人の「関係者」というだけで、幕府の調査の対象になります。拷問(ごうもん)による取り調べも珍しくありませんでした。
江戸時代の刑事手続きを定めた「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」(享保年間制定)には、取り調べ方法についての規定も含まれており、女性だからといって特別に保護されるわけではなかったのです。
おせんが計画を知っていたのかどうか、どこまで関与していたのか——それは今となっては知るすべもありません。でも、たとえ何も知らなかったとしても、「知っていたはずだ」と疑われる立場に置かれることは避けられなかったのです。
「愛妾」という身分の弱さ
正式な妻(正室)であれば、まだ家の後ろ盾や実家からの支援が期待できる場合もあります。しかし「愛妾(めかけ)」という身分は、正室よりもさらに脆弱な立場でした。法的な保護はほぼなく、主人の意志ひとつで切り捨てられる存在です。
ましてや主人が謀反人となった瞬間、その庇護は完全に失われます。おせんが置かれた状況は、まさに「守ってくれる者が誰もいない」という孤立無援のものだったのです。これが、由比正雪の物語の「陰の悲劇」とでも言うべき部分なのです。

おじいちゃん、愛妾って今の言葉にすると何なの?正式な奥さんより弱い立場なの?

ざっくり言えば「正式な婚姻関係のないパートナー」というところじゃな。法的な保護がほとんどなく、子を産んでも身分が低いままのことも多かったのじゃ。現代の感覚で言うと「何の権利もない不安定な立場」じゃよ。おせんにとっては、正雪が全てだったはずじゃ。その正雪を突然失って、さらに処罰される……。これは本当に過酷な運命じゃのぉ。
おせんの立場がいかに弱いものだったか、よくわかりましたね。次は、おせんと同じような境遇に立たされた他の女性たちについても見ていきましょう!
おせんだけじゃない!政治犯の陰に消えた女性たちの歴史
島原の乱と女性たちの悲劇
政治的な事件・反乱に巻き込まれて命を落とした女性たち——その歴史は、江戸時代だけにとどまりません。
慶安の変のわずか14年前に起きた「島原の乱」(1637〜1638年)でも、同じことが起きていました。
島原の乱はキリシタン弾圧と重税への抵抗から起きた大規模な農民一揆です。
幕府の鎮圧軍によって原城(はらじょう)が陥落したとき、籠城していた女性・子どもを含むおよそ3万7千人が皆殺しにされたと伝わっています。
この数字は当時の記録(『島原記』など)にも記されており、歴史的に広く認知されている事実です。
戦に直接参加していない女性や子どもたちも、「反乱軍の一員」として同じ運命をたどりました。
「関係者だから罰せられる」という論理は、島原でも、そして慶安の変でも、同じように機能していたのです。
赤穂事件と大石内蔵助の家族たち
「赤穂事件」(元禄14〜15年、1701〜1702年)もまた、女性たちの悲劇を考えるうえで避けられない事件です。
大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士47名が吉良上野介を討ち取った、この有名な仇討ち事件。
討ち入り前に大石内蔵助は妻・りくに離縁状を渡して実家に帰したという記録が残っています。
これは「妻子を事件から守るため」だったとされており、連座制の恐ろしさを誰よりも内蔵助自身がよく理解していたことを示しています。
一方で、討ち入りに参加した浪士たちの妻や子どもたちの多くは離散・離縁・困窮の道を歩みました。
りくは後に長男・松之丞(まつのじょう)とともに夫の切腹後に尼になったとも伝わっています。
こうした記録と比べると、おせんのことがいかに「記録されなかった存在」であるかが、改めてわかります。
記録されなかった女性たちの共通点
島原の乱、慶安の変、赤穂事件——これらの大きな事件に共通することがあります。
それは、男性の「物語」として語られる事件の陰に、必ず女性たちの悲劇が存在するということです。
でも記録されるのは、圧倒的に男性側の物語ばかりです。
女性たちは「誰それの妻」「誰それの愛妾」としてしか登場しないか、あるいは完全に記録から抹消されてしまいます。
おせんという名前が後世まで伝わったこと自体、実はかなり恵まれているのかもしれません。
名前すら残らずに消えていった女性たちが、歴史の陰にどれほどいたことか……。

大石内蔵助が奥さんに離縁状を渡したのって、守ろうとしてたんだね……でも、離縁された奥さんの気持ちはどうだったんだろうなの。

そこが歴史のせつないところじゃのぉ。「守るために離縁する」という行為は、夫の側から見れば深い愛情かもしれん。でも妻の側から見れば、夫が死を覚悟して自分を切り離した瞬間じゃ。どんな言葉も慰めにならんかったじゃろうな。おせんも、正雪が追い詰められていく様子をそばで見ていたのかもしれんのぉ……。
歴史の陰に消えた女性たち……その姿が見えてくると、日本史の見え方がずいぶん変わってくる気がします。では次に、おせんという存在が現代の私たちに何を教えてくれるのかを考えてみましょう!
おせんの物語が現代に問いかけること〜「名もなき人」の歴史を語る意味
「歴史に残らない人」こそが歴史を作っていた
私がおせんの話をするとき、いつも思うことがあります。
教科書に登場する歴史上の人物は、みんな「記録された人」です。
でも、記録されなかった人たちも同じように生き、同じように感じ、同じように泣いていたのです。
由比正雪が反乱を企てたのは、牢人があふれた不公平な社会への怒りからでした。
でも、正雪が死んだ後も社会に残り続けたのは、おせんのような名もなき人々でした。
彼女たちは黙って生き、黙って苦しみ、記録されることなく消えていきました。
そうした人々の積み重ねの上に、今の私たちの社会があるのだと思うと、なんだか胸が痛くなります。
「慶安の変」がもたらした制度改革という皮肉
ここで少し驚くべき事実をお伝えします。
由比正雪の反乱は失敗に終わりましたが、この事件をきっかけに幕府は牢人問題の深刻さを再認識し、政策の見直しを迫られました。
4代将軍・徳川家綱の治世のもとで、末期養子(まつごようし)の禁緩和や大名への取り締まり緩和など、牢人を増やしていた制度が少しずつ改善されていきました。
これは日本史の教科書でも「文治政治への転換」として言及されています。
つまり、正雪の反乱は失敗しながらも、間接的に社会を変えるきっかけになったのです。
しかし、おせんはその変化を知ることができたのでしょうか。
歴史の皮肉というのは、こういうところにも隠れているのです。
現代につながる「無名の女性」への視点
近年、歴史学の世界では「ジェンダー史」や「社会史」という観点から、これまで見落とされてきた女性たちの歴史を掘り起こす研究が進んでいます。
例えば、歴史学者・高木侃(たかぎかん)氏の研究(『三くだり半と縁切寺』ほか)では、江戸時代の庶民女性の実態がていねいに明らかにされています。
また、歴史家・成田龍一氏らが編んだ「岩波講座 日本歴史」シリーズでも、ジェンダーの視点からの日本史再考が行われています。
こうした研究の積み重ねが、おせんのような「無名の女性」たちに光を当てる基盤になっています。
おせんの物語は、遠い江戸時代の話ではありません。
誰かの「関係者」というだけで理不尽な扱いを受けることの怖さは、形を変えながら今の時代にも続いているのです。

おじいちゃん、正雪の乱が失敗したのに、その後で幕府が制度を変えたってことは……失敗した反乱にも意味があったってこと?なんか複雑なの。

歴史の面白いところはまさにそこじゃよ。失敗した革命や反乱が、権力者に「このままでは危ない」と気づかせることがある。正雪とおせんが払った代償は途方もなく重いものじゃった。でも、その痛みが社会を少しだけ動かした……。歴史とはそういうものじゃ。誰かの犠牲の上に、次の時代が少しずつ良くなっていくものなのじゃよ。
歴史って本当に深いですよね。さあ、いよいよ最後の章です!おせんの物語をもっと深く知りたいあなたへ、おすすめの参考作品もご紹介します!
もっと知りたい方へ!由比正雪・おせんの世界をもっと深く楽しむ方法
まず読んでほしい!おすすめの歴史書・文献
おせんと由比正雪の時代をもっと深く知りたいなら、ぜひ以下の書籍に挑戦してみてください。
まずご紹介したいのは、藤井讓治著『江戸開幕』(講談社学術文庫)です。江戸幕府の成立から安定期に至るまでの政治的変遷がコンパクトにまとめられており、慶安の変が起きた背景を理解するのに非常に役立ちます。
次に、辻達也著『江戸時代を考える』(中公新書)は、江戸時代の社会構造・身分制度・庶民の生活を平易に解説した名著です。おせんのような庶民女性の実態を知るうえで欠かせない一冊といえます。
また、女性史の観点から江戸時代を学ぶなら、高木侃著『三くだり半と縁切寺』(講談社学術文庫)がおすすめです。江戸時代の離縁・女性の権利について、一次史料をもとに丁寧に分析した研究書で、連座制や女性の立場を理解する助けになります。
ドラマ・映像作品で「感じる」江戸時代
活字が苦手な方には、映像作品からアプローチするのもとってもおすすめです。
NHKの「その時歴史が動いた」シリーズでは、由比正雪や慶安の変をテーマにした回が放送されています。NHKオンデマンドや動画配信サービスで視聴可能なこともありますので、ぜひ検索してみてください。
また、歌舞伎の「慶安太平記」は現代でも演じられることがある演目です。歌舞伎に興味がある方は、国立劇場(現在は建て替え中のため、他の歌舞伎上演情報もチェックしてみてください)の上演情報をチェックしてみるのもいいかもしれません。
テレビドラマとしては、時代劇の名作「水戸黄門」や「大岡越前」などのシリーズでも、江戸時代の庶民女性の姿がリアルに描かれており、時代の空気を感じることができます。
実際に「由比正雪ゆかりの地」を訪れてみよう
歴史好きなら「現地に行く」のが最高の学びです!
由比正雪ゆかりの地として有名なのは、静岡県静岡市(旧・駿府)です。
由比正雪の生家跡や、正雪が最期を遂げたとされる場所の近辺が今も残っており、地域の史跡として大切にされています。
静岡市内には静岡市立歴史博物館もあり、江戸時代の駿府・徳川家康に関連する展示が充実しています。慶安の変に関連する史料や解説も見つかることがありますので、訪問前に公式サイトで展示情報を確認してみてください。
また、正雪が自害した際に宿泊していた旅籠(はたご)の跡地付近には、地元の案内板が立てられているところもあります。
現地に立って「ここであの事件が……」と感じる体験は、本や映像では得られない特別なものがあるのです。

おじいちゃん、静岡に行けば正雪の時代の空気を感じられるかもなの!今度夏休みに連れて行ってほしいなの!おせんのことを思いながら歩いてみたいなの。

それは良い考えじゃ!歴史は本の中だけではなく、土地の空気の中にも宿っておるものじゃよ。家康の時代を感じさせる駿府の街を歩きながら、370年以上前にここで生きていた正雪とおせんのことを想像する……。それが本当の歴史の楽しみ方というものじゃ。じゃあじいちゃんと一緒に計画を立てようかのぉ!
まとめ〜おせんが教えてくれること「名もなき者」の歴史こそ本物の歴史
今日は由比正雪の恋人・おせんの物語を通じて、江戸時代の女性たちが置かれた厳しい現実を見てきました。
おせんは、歴史の表舞台には出てこない女性です。
でも、だからこそ彼女の存在は「時代に翻弄された無数の女性たちの象徴」として、今も私たちの胸に刺さるのではないでしょうか。
慶安の変は、教科書的には「江戸幕府の安定化に向けた転換点」として描かれます。
でも、その陰にはおせんのように名前もほとんど記録されずに消えていった女性たちがいました。
歴史を学ぶとき、「記録された人物の物語」だけでなく、「記録されなかった人々の存在」にも想像を巡らせること——それが、歴史をもっと豊かに、もっと人間的に楽しむコツだと私は思っています。
連座制、慶安の変、牢人問題、三従の教え——これらは受験の暗記ワードとして登場することもありますが、その言葉の奥にはおせんのような実在の人間の悲劇が隠れているのです。
次に歴史を学ぶとき、ちょっとだけ「この事件の陰に、どんな女性がいたんだろう?」と想像してみてください。
きっと歴史がぐっとリアルに、ぐっとおもしろくなるはずです!
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。また次回も一緒に歴史の謎を探りましょう!
【この記事のポイントをざっとおさらい】
由比正雪は江戸初期の軍学者で、1651年(慶安4年)に幕府転覆を計画した「慶安の変」の首謀者です。計画は事前に発覚し、正雪は駿府で自害しました。その恋人・愛妾とされるおせんは、明確な史料には姿がほとんど残っておらず、連座制によって処罰を受けた可能性が高い「政治犯の恋人」です。江戸時代の「三従の教え」が示すように、女性は社会的に非常に弱い立場に置かれており、特に「愛妾」という身分は法的保護がほぼない状態でした。おせんの悲劇は、歴史に名前を残した人々の陰に「記録されなかった無数の命」が存在したことを教えてくれます。慶安の変は最終的に、幕府の政策転換(文治政治への移行)という形で社会にわずかな変化をもたらしましたが、おせんはそれを知る前に時代の波に飲まれていったのです。


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