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山川捨松——会津の砲煙から鹿鳴館の舞踏会へ。時代に翻弄された11歳の少女が歩んだ、波乱万丈の人生とは?

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時代の嵐を生き抜いた女性達

みなさん、こんにちは!私はやよいです。

突然ですが、みなさんは「山川捨松」という女性をご存じですか?

「鹿鳴館の花」と称えられた、明治時代の華族夫人です。でも彼女の人生は、華やかな舞踏会のドレスだけでは語れないのです。

会津藩の武家の娘として生まれ、戊辰戦争の砲火をくぐり抜け、11歳でアメリカへ渡り、11年間の留学生活を経て帰国。そして上流社会の最前線で活躍した女性——。

波乱万丈どころか、まるで歴史小説の主人公みたいな人生ですよね!

今回は「時代に翻弄された女性たち」シリーズとして、山川捨松の生涯をたっぷりご紹介します。受験生のみなさんにも役立つ情報もしっかり盛り込みましたので、最後まで読んでくださいね!


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「捨てられた松」という名前の謎——山川捨松の生い立ちと会津藩

会津藩という誇り高き家に生まれて

山川捨松は、1860年(万延元年)に会津藩の上級武士・山川家に生まれました。

当時の会津藩は、徳川将軍家を守護する「親藩」のひとつ。「ならぬことはならぬ」という有名な藩訓「什の掟」で知られる、誇り高き武家の町でした。

山川家は会津藩のなかでも特に重要な家柄で、捨松の兄・山川大蔵(浩)は後に会津藩の家老格として戊辰戦争を指揮した人物。姉の山川二葉も、会津藩きっての才女として知られていました。

そんな名門一族に生まれた彼女の幼名は「咲子」。明るく聡明な少女でした。

「捨松」という名前に込められた、悲しい意味とは

では「捨松」という名前はどこから来たのでしょう?

これには深い意味があるのです。アメリカへ渡ることが決まったとき、故郷の家族と長く離れ離れになることを覚悟して、この名前に改めたといわれています。

「捨てた」という字が入っていながら、松は冬でも緑を保つ常緑樹。つまり「故郷を離れても、松のように強く根を張って生きていく」という意志が込められていたのです。

一説には「家族が捨てる覚悟をした娘」という意味も含まれていたとも。親が娘を手放す、その深い覚悟と悲しみが伝わってきますよね。

なんて切ない名前なんでしょう……。でも、この名前のとおり捨松は常緑の松のように、どんな逆境でも緑の葉をたたえ続けた女性でした。

戊辰戦争——少女が目撃した、会津の悲劇

咲子(後の捨松)が8歳のとき、日本を揺るがす大事件が起きました。戊辰戦争(1868年)です。

新政府軍(薩摩・長州など)vs 旧幕府軍(会津藩など)の戦いは、会津の地を焦土と化しました。

1868年(明治元年)の会津戦争では、会津若松城が激しい攻撃を受けます。この戦いで有名なのが「白虎隊」——16〜17歳の少年たちが故郷を守るために戦い、城が炎上したと思い込んで自刃したエピソードです。

山川家も例外ではありませんでした。兄の大蔵(浩)は最後まで戦い続け、姉の二葉は婦女隊として城内に立てこもったのです。

幼い咲子もまた、砲弾の轟音と煙の中で、故郷が崩れていく様子を目の当たりにしました。この体験が、後の彼女の強さの根っこになっていたのかもしれません。

やよい
やよい

ねえおじいちゃん、「捨松」って名前、最初は変だなって思ってたけど、意味を知ったらすごく深い名前なの。捨てても松みたいに強く生きるって……なんか胸に刺さる感じがするの。

祖父
祖父

そうじゃのぉ。会津の人間は、負けても誇りを捨てなかった。捨松というのはその象徴じゃ。敗者の娘が海を渡って、やがて明治の最前線に立つ——歴史とはなんとも皮肉で、面白いものじゃのぉ。


11歳で太平洋を渡る——岩倉使節団と女子留学生たちの挑戦

「女の子をアメリカへ送れ」——明治政府の大胆な決断

戊辰戦争が終わって数年後、日本は大きく動き始めていました。

1871年(明治4年)、明治政府は欧米の先進文明を学ぶため、岩倉使節団という大規模な外交使節団を派遣しました。全権大使は岩倉具視、副使には木戸孝允伊藤博文大久保利通山口尚芳という明治の大物たちがずらりと並びます。

この使節団には、なんと女子留学生も同行することになりました。「将来、日本の女性教育を変えてくれる人材を育てよう」という、当時としては革新的な発想です。

選ばれたのは5人の女子留学生。最年長は吉益亮子(14歳)、最年少はなんと津田梅子(6歳!)。そして捨松こと山川咲子は、そのとき11歳でした。

……みなさん、6歳ですよ?今の小学校1年生ですよ!?

その年齢で一人で太平洋を渡るなんて、想像するだけで心がドキドキします。

敗者の娘が留学生に選ばれた、意外すぎる理由

ここで、とっても重要な疑問があります。

捨松は会津藩の出身——つまり、明治政府と戦った「敗者」の娘です。なぜそんな彼女が、政府主導の留学制度に選ばれたのでしょうか?

実はここに、兄・山川大蔵(浩)の存在がありました。戊辰戦争後、会津藩は北海道の斗南藩に移されましたが、大蔵はその逆境のなかでも実力を認められ、新政府のもとで少しずつ頭角を現し始めていたのです。

また捨松自身の聡明さと教養の高さも、選考の決め手になったといわれています。会津藩の教育は非常に厳しく、武家の子女でも読み書きや礼儀作法をしっかり学んでいたのです。

敗者の娘だからこそ、かえって「何もしがらみがない」という見方もあったかもしれません。歴史の不思議な巡り合わせを感じますよね。

アメリカに置き去りにされた少女たち——10年以上の長き別れ

1871年12月、咲子たちは横浜から船に乗りました。

当初は「数年で帰国する」予定だったといわれています。でも実際には、彼女たちがアメリカで過ごした年月は10年以上にもなりました。

捨松はコネチカット州ニューヘイブンのベーコン家に預けられ、地元の学校へ通い始めました。言葉も文化も何もかも違う異国の地で、11歳の少女はどんな思いだったでしょう。

それでも捨松は驚異的な速さで英語を習得し、やがてアメリカの教育機関でも際立つ優秀な学生へと成長します。最終的にはヴァッサー女子大学(Vassar College)へ進学し、1882年に卒業。日本人女性として初めてアメリカの名門大学を卒業した一人となりました。

その11年間、日本にいる家族の消息はほとんど届かず、家族の変化も経験できなかった——。このことが、帰国後の彼女を複雑な立場に置かせることになるのです。

やよい
やよい

おじいちゃん、11年間も家族に会えないって、今で言えばスマホも手紙もなかなか届かない時代でしょ?それで勉強して大学まで卒業するって、ちょっと信じられないの。

祖父
祖父

じゃからこそ、すごいのじゃ。会津で鍛えられた根性と、武家娘の誇りが彼女を支えたのじゃろうのぉ。孤独を力に変える——それが捨松という女性の本質じゃと、わしは思うておるのぉ。


アメリカで花開いた才能——ヴァッサー大学と国際社交の舞台

名門ヴァッサー女子大学で磨いた、圧倒的な教養

捨松が進学したヴァッサー女子大学(Vassar College)は、アメリカ東海岸に位置する名門校です。

1861年に設立されたこの大学は、女性に男性と同等の高等教育を提供することを目的とした、当時としては非常に進歩的な学校でした。文学、芸術、科学、哲学——幅広い教養を身に付けることが求められたのです。

捨松はここで英語・フランス語はもちろん、音楽・美術・自然科学など幅広い分野を学びました。成績は優秀で、クラスのなかでも際立つ存在だったといわれています。

特筆すべきは、彼女の社交能力。英語が堪能なだけでなく、アメリカの礼儀作法、ダンス、音楽なども身に付け、アメリカの社交界でも見劣りしない洗練された女性に成長したのです。

この経験が後に「鹿鳴館の花」と呼ばれる素地を作ったといえるでしょう。

アメリカで出会った「本当の民主主義」——帰国後の葛藤の種

11年間、アメリカの地で過ごした捨松は、単に「英語が話せる日本人」になっただけではありませんでした。

彼女はアメリカの市民社会を肌で感じ、女性の権利社会的な平等という考え方を、生活のなかで自然に吸収したのです。

女性が自由に意見を述べ、教育を受け、社会に参加できるアメリカの空気——。それが当たり前の環境で11年間を過ごした後、帰国した先の日本はどんな世界に映ったでしょうか。

明治の日本は西洋化を急いでいましたが、女性の地位という点ではまだまだ前近代的な慣習が根強く残っていました。この「知っている自由」と「与えられていない現実」のギャップが、帰国後の捨松を深く苦しめることになります。

卒業式でのスピーチ——すでに始まっていた「使命感」

1882年、捨松はヴァッサー女子大学を卒業します。その卒業式で彼女はスピーチを行い、日本の女性教育の遅れを指摘し、自分が帰国後にそれを変えるために働くと宣言したといわれています。

当時のアメリカの新聞も彼女のことを取り上げ、「日本から来た優秀な女性留学生」として注目されていました。

彼女はすでにこの時点で、「帰国したら日本を変える」という強い意志を持っていたのです。その覚悟はまさに、会津武家の血が流れる女性のものでした。

さあ、満を持して日本に帰ってきた捨松。しかし、故郷は彼女が想像していたよりも、ずっと複雑な場所になっていたのです……。

やよい
やよい

卒業式でもうスピーチして、「日本を変えるために帰る」って言ってたんだね。11年離れてたのに、日本への気持ちはずっと持ち続けてたんだなぁ……なんか、かっこいいの。

祖父
祖父

会津人はのぉ、負けても魂は折れんのじゃ。11年経っても「故郷を変えたい」という気持ちが消えなかった——それが捨松の武器じゃったのぉ。ヴァッサー大学卒業とは、当時の日本女性として最高峰の学歴じゃから、大したものじゃ。


帰国という名の「異文化衝撃」——22歳の捨松が直面した、もうひとつの孤独

日本語すら忘れかけていた——「異邦人」として帰った故郷

1882年、捨松は11年ぶりに日本の土を踏みました。22歳になっていました。

しかしここで、誰も予想しなかった問題が起きます。

捨松は日本語を忘れかけていたのです。英語での思考が染みついた彼女にとって、日本語で日常会話をするのすら難しくなっていました。

いっしょに留学した津田梅子も同様で、帰国した当初は日本語よりも英語の方が自然だったといわれています(津田梅子については、後に津田塾大学の前身を設立したことでも有名ですね)。

日本に帰ってきたのに、日本語がうまく話せない——。これは捨松にとって、アメリカで異国人として過ごした孤独とは別の、また新しい孤独でした。

女性の活躍の場が見つからない——明治日本のリアル

もうひとつ、帰国した捨松を悩ませたのが「何をすべきか」という問題でした。

留学の目的は「日本の女性教育のために働く」こと。でも、帰国した22歳の彼女を教育者として採用する機関はなかなか見つからなかったのです。

当時の明治日本では、いくら高学歴でも、女性が表立って専門職に就くことは難しい時代でした。男性中心の社会の壁は、アメリカで学んだ彼女の目には一層厚く見えたことでしょう。

「こんな日本のために11年間も頑張ってきたの?」と、心の中で叫びたくなった瞬間もあったかもしれません。

大山巌との出会い——運命を変えた「縁談」の真相

そんな帰国後の葛藤のなか、捨松の人生を大きく動かす出会いがありました。

明治政府の陸軍を率いる重鎮・大山巌(おおやまいわお)との縁談です。

大山巌は薩摩藩出身の将軍で、のちに陸軍大臣・元帥にまで昇り詰める人物。戊辰戦争では会津攻めの砲撃を指揮した側——つまり、捨松の家族を苦しめた側の人間でもあったのです。

会津と薩摩。敵と敵の娘が夫婦になる——歴史の皮肉とはこういうことを言うのでしょうか。

実はこの縁談、捨松は最初は躊躇したともいわれています。しかし、兄の大蔵(浩)が背中を押し、また大山巌自身が誠実に向き合ったことで、捨松は承諾したとのこと。

1883年、山川捨松は大山捨松となり、華族の世界へと足を踏み入れます。

やよい
やよい

えっ、会津を攻めた側の人と結婚するの?捨松ってそれ、よく決断できたなぁ……おじいちゃん、これって普通に考えたら、すごく複雑な気持ちになるよね?

祖父
祖父

複雑じゃったろうのぉ。でも、それを選べたのが捨松じゃ。アメリカで「過去より未来を見る」という考えを身に付けたのかもしれんのぉ。それに大山巌は豪快な人柄で、捨松の才能を心から認めていたとも伝わっておる。対等な夫婦関係——それが捨松の求めておったものじゃったのかもしれんのぉ。


鹿鳴館の花——文明開化の最前線に立った「大山捨松」の戦略

鹿鳴館とは何か——明治政府の「西洋コスプレ作戦」

さあ、いよいよ「鹿鳴館」の登場です!

1883年(明治16年)、東京・日比谷に鹿鳴館がオープンしました。設計したのはイギリス人建築家のジョサイア・コンドル。西洋風の豪華な社交場で、明治政府の外交政策の要(かなめ)となる場所でした。

その目的は不平等条約の改正です。幕末に結んだ不平等条約をなんとか改正したかった明治政府は、「日本も西洋と対等な文明国だ!」とアピールするため、西洋式の舞踏会や晩餐会を盛んに開きました。

ドレスを着て、西洋音楽に合わせてダンスをして、フランス料理を食べる——。当時の日本人の多くには、全く経験のない世界です。

だからこそ、本物のアメリカ生活を知っている捨松の存在が光ったのです。

「鹿鳴館の花」と呼ばれた理由——単なるホステス役じゃなかった

捨松は陸軍大臣夫人という立場で、鹿鳴館の社交の場に積極的に参加しました。

英語・フランス語を流暢に操り、西洋の礼儀作法も完璧で、ダンスもこなす——。外国の外交官や貴族たちと対等に会話できる日本人女性は、当時ほとんどいませんでした。

捨松は「鹿鳴館の花」と呼ばれましたが、それは単なる飾りではありませんでした。彼女は意図的に、日本の女性の知的レベルと教養の高さを外国人に見せようとしていたのです。

鹿鳴館で行われた慈善舞踏会「鹿鳴館慈善会」(1884年)では、捨松が中心になって企画・運営を行いました。集まった資金は、慈善活動に使われたといわれています。これは単なる社交行事ではなく、彼女なりの「社会貢献」の形でもあったのです。

鹿鳴館を批判する声——当時の「逆風」の実態

しかし、鹿鳴館はすべての日本人に歓迎されたわけではありませんでした。

当時の保守派からは「西洋の真似事をするとは何事か!」「日本の美風を忘れるな!」という批判の声が上がりました。捨松のような女性は「西洋かぶれ」と陰口をたたかれることもあったのです。

また、外国人側からも辛辣な視線がありました。フランスのジャーナリスト、ジョルジュ・ビゴーは当時の鹿鳴館を風刺した絵を描き、「西洋文明を表面だけ真似た日本人」として揶揄しました。

そのような批判のなかでも、捨松は自分のやり方を貫きました。批判と称賛の両方を受けながら、それでも前へ進んでいく——これもまた「会津武家の娘」の矜持(きょうじ)だったのかもしれません。

さて、捨松の活躍は社交の場だけに留まりませんでした。彼女はもっと深いところで、日本の社会を変えようとしていたのです。

やよい
やよい

鹿鳴館って社交パーティの会場だと思ってたけど、捨松にとっては「日本を証明する舞台」だったんだね。単なるドレスを着たパーティじゃなくて、そこには計算があったんだなって思うの。

祖父
祖父

そうじゃよ。捨松は鹿鳴館を「ショーウィンドウ」として使ったのじゃ。批判もあったが、彼女が本当に戦っていたのはドレスの下にあった「偏見の壁」じゃったのかもしれんのぉ。当時の外交官の夫人たちが「日本人女性もここまで出来る」と見せるだけで、どれほど価値があったことか。


看護師教育の礎を築いた——捨松のもう一つの「戦場」

日清戦争という転機——夫の出征が変えた使命感

鹿鳴館の時代が終わりを告げた後も、捨松の活動は止まりませんでした。

1894年(明治27年)、日清戦争が勃発します。夫・大山巌は総参謀長として出征しました。

捨松は夫を送り出しながら、戦場で傷ついた兵士たちのことを思わずにはいられなかったのです。アメリカ留学中に学んだ知識の中に、近代的な看護教育への関心がありました。

この時期、捨松は日本赤十字社の活動に積極的に関わり始めます。当時の日本赤十字社は、まだ設立から間もない組織でした。捨松は上流社会の人脈を活かして支援者を集め、看護師の育成に力を注いだのです。

アメリカで学んだ「近代看護」を日本へ——ナイチンゲールの精神との接点

捨松がアメリカ留学中に学んだことのひとつが、近代看護の考え方でした。

19世紀後半のアメリカでは、フローレンス・ナイチンゲールの提唱した近代看護の概念が広まりつつありました。清潔・衛生管理・専門的なケア——それまでの「看護は女の雑事」という考えを覆す、革新的な思想です。

捨松はこの考えを日本に持ち帰り、「看護は専門的な知識と訓練が必要な仕事だ」という意識を広めようとしました。

日清戦争・日露戦争(1904〜1905年)にかけて、日本赤十字社の看護師育成事業は急速に拡大していきます。その裏側には、捨松の地道な活動がありました。

津田梅子との友情——同志として日本の女性教育を支えた絆

捨松のもうひとつの活動が、女性教育の支援です。

幼い頃からの留学仲間・津田梅子は、1900年(明治33年)に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立しました。今の5000円札に描かれているあの方です!

捨松はこの学校の設立を精力的に支援しました。上流社会でのネットワークを活かして資金集めに奔走し、社会的な信用を与えることで学校の発展に貢献したのです。

同じ時代を留学生として生き抜いた二人の間には、言葉では語りつくせない深い絆があったのでしょう。

「社交界の花」という華やかなイメージの裏で、捨松は本当にたくさんの仕事をしていたのです。そしてその活動は、現代の日本の教育・医療の礎にしっかりとつながっています。

やよい
やよい

捨松って、津田梅子と友達だったんだね!5000円札の人と幼なじみって、なんかすごい組み合わせなの。二人とも留学生として同じ時代を生きて、帰ってきてから一緒に日本を変えようとしてたんだね。

祖父
祖父

梅子と捨松は、いわば「明治の女性改革コンビ」じゃのぉ。梅子は学校を作り、捨松はそれを支える——役割は違えど、目指した先は同じじゃった。二人が6歳と11歳で一緒に船に乗ったことを考えると、感慨深いものがあるのぉ。


山川捨松が残したもの——現代に続く「会津の松」の根っこ

晩年の捨松——夫を見送り、静かに散った松の葉

日露戦争を経て、夫・大山巌は元帥にまで昇り詰めました。

しかし、捨松の体はすでに限界に近づいていました。長年の社交活動、慈善活動、そして看護師育成への情熱——それらを支えてきた体が悲鳴を上げ始めたのです。

1919年(大正8年)、山川捨松はこの世を去りました。享年58歳でした。

夫・大山巌は1916年に先立っており、捨松は晩年を比較的静かに過ごしました。

生涯にわたって「誰かのために動き続けた女性」——その最期は、意外なほど穏やかなものだったといわれています。

歴史が見落とし続けた名前——なぜ捨松の評価は遅れたのか

不思議なことに、山川捨松という名前は長い間、歴史の教科書にほとんど登場しませんでした。

同じ留学仲間の津田梅子は「津田塾大学の創設者」として有名になり、お札にも登場しました。でも捨松は「大山元帥の奥さん」としてしか語られないことが多かったのです。

これは当時の歴史記述が「制度を作った人」を評価しやすく、「制度を支えた人」を見落としがちだったことを示しています。

捨松は鹿鳴館で日本を代表し、赤十字で看護教育を支え、津田梅子の女子英学塾を支援しました。でもそれらは「自分の名前で残る仕事」ではなかった——。

これもまた、時代に翻弄された女性の宿命だったのかもしれません。

捨松を知るための参考作品——もっと深く学びたい人へ

山川捨松についてもっと深く知りたい方には、ぜひ次の作品をおすすめします。

まず、キャサリン・サンソム著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』(講談社)。英語版タイトルは”The Japan Journals”とは別の作品で、捨松の生涯を丁寧に追ったノンフィクション伝記です。捨松の人物像を最もよく伝える一冊として評価が高く、研究者・一般読者ともに参考にしている名著です。

また、NHKのドラマや大河ドラマでも会津藩・戊辰戦争を扱った作品は多数あります。2013年の大河ドラマ「八重の桜」(NHK)は、同じ会津藩出身の新島八重を主人公にした作品で、山川家についても言及があり、捨松が生きた時代を理解するうえで非常に参考になります。

さらに、岩倉使節団と女子留学生については「花子とアン」の時代背景を扱った資料や、NHKのドキュメンタリー番組でも取り上げられています。ぜひ検索してみてください。

やよい
やよい

おじいちゃん、捨松って、津田梅子みたいに自分の名前で何かを作らなかったから、教科書に出てこなかったんだね……でも、彼女がいなかったら津田梅子も動けなかったかもしれないし、看護師さんの世界も違ってたかもしれないの。

祖父
祖父

やよい、いいことを言うのぉ。歴史には「縁の下の力持ち」という言葉がぴったりな人物がたくさんおる。捨松はまさにそれじゃ。松の根っこは見えんが、だからこそ木が倒れないように支えておるのじゃ。彼女の人生は、そういう生き方の美しさを教えてくれるのぉ。


まとめ——会津の砲煙から明治の社交場まで、捨松が示した「生き抜く力」

今回は「山川捨松」の生涯を、会津藩での幼少期からアメリカ留学、そして帰国後の活躍まで、たっぷりとご紹介してきました。

改めて振り返ってみると、彼女の人生がいかに「時代に翻弄された」ものであったか、よくわかるのです。

会津戦争で故郷を失い、11歳で太平洋を渡り、11年間の孤独な留学生活を送りました。帰国すれば今度は日本語を忘れ、活躍の場を見つけられず、かつての「敵」と結婚するという選択を迫られました。

それでも彼女は、どの場所でも「松」のように根を張り続けました。

鹿鳴館での外交貢献日本赤十字社での看護教育支援津田梅子の女子英学塾への協力——どれひとつとして、歴史の流れを変えたものばかりです。

「捨松」という名前は、捨てられた哀しみではなく、どこに植えられても根を張る松の強さを意味していました。

彼女の人生は、まさにその名前どおりだったのではないでしょうか。

歴史の教科書にはなかなか登場しない山川捨松ですが、日本の文明開化・女性教育・近代看護というキーワードを語るうえで欠かせない存在です。受験勉強のなかでも、ぜひ一度「岩倉使節団の女子留学生」というテーマで調べてみてください。きっと新しい発見がありますよ!

それでは、また次回の「日本史にみる『時代に翻弄された女性たち』」シリーズでお会いしましょう。私・やよいでした!


📚 この記事の参考文献・参考作品

キャサリン・サンソム著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』(講談社)は、捨松の生涯を英語で調査したノンフィクション伝記の日本語訳で、最も信頼度の高い一次資料に基づく作品です。NHK大河ドラマ「八重の桜」(2013年)は、同じ会津藩出身の新島八重を主人公に、戊辰戦争から明治の激動期を描いており、捨松が生きた時代背景の理解に役立ちます。また、岩倉使節団に関する学術資料としては、田中彰著『岩倉使節団』(講談社学術文庫)も広く参照されています。

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